【鳩との出会い】
 僕が初めて鳩と出会ったのは小学校2年生の春であった。向かいに
住んでいる中学生のお兄さんが納屋を改造して10羽ほど飼っており、
毎日出かけては眺めていた。そんなに好きならあげようかということで
その鳩舎に迷い込んだ土鳩のペアを貰って飼い始めた。
 鳩レースがあることは、親父の従兄弟がレースを楽しんでいたことから
早くから知っていたが、将来自分が参加するようになるとは、当時は思っ
ても見なかった。ただ、鳩の姿を見る、鳴き声を聞くだけで楽しかった。
 そんな時代であった。


【そのころ鳩を飼っていた人たちは】
 僕に鳩をくれたAさんは中学生で、真黒、灰刺、灰胡麻全刺、純白の
4羽がなかでも自慢の鳩であった。今から思うと、当時は餌の質が悪かっ
たためか、作出があまりうまくいかず、なかなか鳩の数が増えない時代で
あり、普通の鳩でも1羽1羽が非常に大切にされていた時代でもあった。
 Aさんの真黒は、同じ地区で飼っていたKさんの「Kのブラック」と
有名な鳩の直仔だったが、欲しい人はたくさんいたが、兄弟は2・3羽しか
作出されなかった。後に、僕の鳩舎にもT君経由で巡りめぐって1羽の♂の
直仔が来たが、残念ながら真黒ではなく、灰胡麻であり、値は半減した。
 まだ家庭に自動車が普及していない時代であり、放鳩訓練はほとんど
行われてはおらず、このAさんにしても庄川から帰還したと自慢している
くらいであった。庄川は、5K先の河川である。
 見ているだけで楽しかった、ワクワクして鳩を眺めていた時代で、40年
経って、欲しい鳩が自由に手に入る今でも、あれだけの感動や喜びは
味わえないだろうと思える、本当にいい時代であった。


【鳩鳩鳩に明け暮れた日々】
 小学校高学年になると、他クラスの生徒とも行き来ができるようになり、
T君やN君といった同級生の鳩仲間もできた。特にN君の家では当時大学
生の兄さんが主体で鳩飼育をしており、毎日のように彼の家に入り浸り、
鳩に関する知識は広がっていった。小学生には部活もないことから、
毎日が鳩、鳩、鳩であった。40年経った現在も定期購読を続けている
愛鳩の友誌に出合ったのも、この頃、N君宅である。
 中学生になると、交友範囲がさらに広がり、他の小学校卒業の鳩仲間も
できた。中でもM君の鳩舎は古いものであったが、僕の好きな造作であった
し、立派なグリズルの雄鳩を今でもはっきり覚えている。


【憧れのレース鳩】
 当時(昭和40年頃)、Iさんという兄弟が僕の住むこの伏木地区で唯一
公式にレース参加しておられ、話を聞かせてもらったり、700kを帰還した
栗胡麻の直仔を貰ったりもした。後になって思ったのだが、Iさんは記録
時計を持っておられなかったようで、本当にレース参加しておられたのか、
本当に700Kを帰していたのか。40年前の話で、今となっては「真相は
藪の中」である。
 ただ、僕が飼っていた、いわゆる普通の鳩とは、鳩質は明らかに違って
いると当時は感じていた。今でも700K帰還の立派な栗胡麻の姿をはっ
きり思い出すことができる。


【大学生活にも鳩はいた】
 高校に進学してからは鳩の飼育は中断したが、愛鳩の友誌を始めとする
鳩関係の本や資料は定期購読を続けており、鳩狂いは相変わらず続いて
いた。どうも僕は『熱し易く、冷め難い』性格のようである。
 大学はレースの本場ということで初めから関東を考えており、法政
大学に進学した。この法政大学に進んだことが、その後の鳩人生に大きな
影響を与えることになるとは夢にも思わなかった。
 大学の裏道一本を隔てて靖国神社がある。(あの小泉首相が参拝して
物議を醸し出している靖国神社である。)当時(昭和48年)、交通公社
(?)の三井さんという方が、「英霊の御霊を護る靖国の杜に白鳩を」と
いう発案で、鉄骨三階建ての鳩舎(1階は靖国神社白鳩の会事務所であっ
た。)を建設し、繁殖を開始したところであった。愛鳩の友誌でそんな
記事を目にし、施設見学に出かけたところ、ハンドラーを募集していると
いう話から、一気に僕の採用まで話が進んでしまったのである。


【え?あの靖国神社に住んでいた?!】
 それまでのハンドラーの方はアパートから通勤していたのだが、神社の
権宮司からの「学生なら宿舎があるよ。」の一声で、境内の鳩舎脇にある、
古い木造の平屋2K(4畳半と3畳間・4畳半のK)の白い家が僕の、
靖国神社白鳩の会のハンドラーの住まいとなったのである。日当たりの
いい鳩舎の陰になり、湿気をもつのが欠点ではあるが、家賃はタダ。
4万円の仕送りで4畳半の下宿代と生活費が賄えた時代に、月給7万円、
家賃タダ、光熱水費タダ、電話かけ放題の恵まれた住み込み学生ハンドラー
が誕生したのである。僕はその後、結局2年間、靖国神社の境内に住んで
いたのである。
 靖国神社というと形式張って、さぞかし堅苦しいのではないかと思われる
かもしれないが、実際にはそこで働く人にとっては神社という職場であり、
宮司だけでなく、事務員もいれば、用務員もいる。僕と同年代の若い人も
たくさんいる職場であった。袴の色が階級を表していることも初めて知った。
 一般の市民には覗くことの出来ない世界を垣間見る、いい経験であった。
ただし、場所が場所だけに門限があって、門が閉まってしまうのには閉口
したが。

 だって、午後6時門限だよ、信じられる?


【学校にも行かずに、何してたの?】
 僕に与えられた業務は、給餌と鳩舎内清掃といった日常管理、そして
目標1,000羽の繁殖管理。(当時はまだ200羽余りであり、とにかく
「産めよ、殖やせよ。」だった。)それに加えて、合図(音楽を鳴らす)を
したら、決められた境内に舞い降りることを仕込むことであった。訓練は
順調に進み、3か月くらいで合図をしたら境内に舞い降りるようになったの
だが、場所が靖国神社ということもあって、新聞、テレビ等のマスコミの
取材も結構あり、普通の学生には体験できない、なかなか楽しい毎日を
過ごしていた記憶がある。
 自分で提案し、愛鳩の友誌に1頁、靖国神社白鳩の会コーナーを貰い、
毎月原稿を書いていたのも今は良い思い出である。


【憧れの染谷白嶺氏作出鳩】
 日本伝書鳩協会が全面的にバックアップして、全国の愛鳩家に寄贈を
募って集められた100ペア近い純白鳩は、質もピンからキリであり、
白いだけの土鳩に近いものから、フランスの輸入鳩までいた。確か、
宇田川龍雄著「伝書鳩の飼い方」という本の巻頭グラビアに紹介されて
いた、白鳩で有名な染谷白嶺氏の作出鳩も数羽いた。純白で柿眼、銀眼の
染谷純白鳩は、たくさんいた種鳩の中でも群を抜いた出来であり、僕の
憧れでもあった。内緒で(もう時効になっているよね。)直仔を作出して、
家に送ったりもした(当時、親父に頼んで家でも鳩を飼育していた。)が、
結局失踪してしまったようである。


【純白への思いが再燃した】
 小学校2年生から鳩飼育を続けており、一時期、純白ばかり20羽ほど
飼っていたこともあったが、残念なことに盗難にあってしまった。伏木の
寿司屋さんに純白を飼っている人がいて、叔母さんに口を利いてもらい、
菓子折りを持って譲ってもらったものである。当時はレースを意識する
ことなく、毎日の舎外運動(ほとんど飛ばず、屋根の上で遊んでいる状態)
を見ているだけで十分満足していた。青い空に純白の翼を広げて飛ぶさまは
眺めていても飽きることがなかった。毎日、靖国神社で200羽の純白鳩を
管理することで、いつかは純白でレースをと、純白への思いが再燃した時期
でもある。


【待望のレース参加へ】
 大学を無事4年間で卒業し、就職先を地元の市役所に求めたのも、鳩
レースへの参加を最優先させた結果である。親父に借金をして、瓦屋根の
本格的建物の車庫兼鳩舎を建設したのは、1977年秋である。
 この鳩舎で本格的な作出に入ったのは78年春であり、レース参加は
同年秋からである。僕が住んでいる伏木地区は、日本地図を見てもらうと
よく判るが、富山湾が湾曲していることから、とてもハンデがあることが
レースに実際に参加してみて初めて判った。到着時間で5分、しかも深い
位置にありながら距離が短いことで5分の計10分がハンデとなり、一番
時計でせいぜい5位前後、よほどのぶっちぎりじゃないと優勝できない
場所だった。
 ただでさえこうしたハンデがあるようでは、純白鳩でのレースどころ
ではなく、当面はレース本位で飼育を考えざるを得なく、純白鳩への
思いは封印してしまったのである。


【初めての稚内GN(グランドナショナルレース)へ】
 翌79年春に初めての稚内GN1000Kに参加した。当時のGNの
記録率は10〜30%、今と違ってかなりの帰還が望める状況にあった。
しかし、かといって簡単に帰還できる訳でもなく、記録するためには
「失踪したら涙が出るくらいの鳩」を参加させないと帰還は望めないと
先輩から言われていた。
 僕が参加させたのは、78年生まれの中で、海越え600KGPの上位
帰還鳩2羽、つまり僕の鳩舎でのベストの選択をした訳である。結果は
翌日30%近い帰還がある展開になったことも幸いして、翌日午前に1羽、
同日夕方に1羽とパーフェクトな帰還であり、連合会5位(総合30位)
と28位を獲得したのである。
 以後、4年間ほどは参加を続け、帰還・記録もしていたのだが、GNは
持ち寄り日がゴールデンウィークにかかることから、3人の娘の父親に
なった僕は、家庭サービスを第一とし、その後はGNへは参加していない。


【レース鳩から純白鳩への転換】
 妻の勤務先である保育園から運動会などで鳩を放鳩してほしいと依頼され
何度か飛ばしてあげ、たいへん喜ばれた。やがて、それが口コミで伝わり、
いろんな所(保育園、学校など)から放鳩の依頼がきた時期があった。
(今は鳥インフルエンザ等の影響からか、どこからも来ないが。)
 また、同じ時期から、年齢とともに仕事もだんだん忙しくなり、強制舎外
などの完全な管理のもと、レースへ参加していくことが困難になってきた。
 レース参加もままならない。当然、成績も挙がらない。でも飼育はやめた
くない。それならいっそのこと、白鳩に切り替えてしまえば、保育園の
運動会で放鳩しても園児に喜ばれるのではないかと思い立ったのが5年前で
ある。
 2001年から2003年までは、選手鳩をつくるための種鳩づくりに取り組
んだ。作出した白鳩を実際に飛ばしてみて、その手ごたえや出来具合を
確かめ、合格したものを種鳩にストックして、種鳩陣の充実に取り組んで
きたところである。


【本格的参戦は?】
 3年かけて種鳩陣も充実し、まとまった選手鳩の作出も可能となり、
いよいよ本格的にレースに参戦と考えていた2004年春。皮肉にも仕事が
忙しくなり、レース参加そのものが難しくなってしまい、仕方なく作出と
個人訓練だけを繰り返してきた。その間も、最低限の性能検定をという
ことで、200Kまでは飛ばしてきたことから、性能低下はない、鳩舎
全体の底上げに繋がっているものと信じているのだが。


【白鳩を使翔してみて】
 白鳩を初めてレース参加させたのは、2002年秋レースであった。
おっかなびっくり、手探りでの参加である。結果、普通羽色のレース鳩より
スピードが乗らないなという気はしたものの、10%以内の入賞なら十分
可能だし、帰還への手ごたえもある。帰還率が若干悪いかなという感じだが、
何より帰還しただけで喜びと満足感が得られるという楽しみがある。
 この帰還に対する喜びが鳩を飼う原点であり、現在のレース界はあまりに
勝負にこだわり、鳩を消耗品扱いし過ぎているきらいがあると危惧している。
もう少し、スローライフ的な飼い方ができれば、第二の人生の楽しみ、趣味と
して道が開け、社会的認知もされるのではないかと僕は思っているのだが。


【今後のレース参加予定】
 今春、人事異動で職場が代わり、昇格したこともあって、作出さえも
なかなか面倒を見てやれなかったのだが、なんとか秋季レースへ参加も
できそうな雰囲気になってきた。ただ、2か月間、朝の時間を割いてまで
強制舎外を実施することは困難であり、結局、訓練に頼るほかないのかなと
思っている。なるべく早めに個人訓練を済ませることができれば、連合会
訓練に合流することができるのだが。